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無冠の帝王と呼ばれた元競輪選手「山田裕仁」を徹底網羅!所有馬・偉業・伝説などご紹介!

競輪予想サイト解体新書の検証担当「近藤 宗康」です。

今回は「山田裕二」選手についてご紹介します。

山田裕二_TOP

あなたは、お気に入りの選手と聞いて思い浮かべる人物は誰でしょうか。

「初めて競輪を見に行った時に出走していた選手」大舞台でタイトルを獲得した選手」など、名前が上がる選手は様々だと思います。

中には、現役引退してもなお、その功績や走りが根強く脳裏に焼き付いている選手を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。

今回は、現役引退後も競輪ファンからの支持が厚い、山田裕二選手についてご紹介します。

ぜひ最後までご覧ください。

山田裕仁ってどんな選手? 

山田裕二_プロフィール

名前 山田 裕二(やまだ ゆうじ)
生年月日 1968年06月18日
年齢 54歳
出身地 岐阜県
身長 183.0cm
体重 88kg
血液型 A型
期別 61期
ホームバンク 大垣競輪場
自転車競技歴 ・KEIRINグランプリ優勝 1997、2002-2003
・日本選手権競輪優勝 2002-2003
・競輪祭優勝 2002-2003
・全日本選抜競輪優勝 1998
・SSカップみのり優勝 2009
・S級S班に昇格 2010
好きな食べ物  – 
嫌いな食べ物  –

山田裕二選手は、岐阜県出身の54歳、登録機は61期です。

どの経歴を見ても、華々しい経歴を収めてきたスター選手であったことがわかるでしょう。

現役を引退した山田裕二選手は現在、競輪評論家として競輪界の発展に貢献しています。

山田裕仁のデビューからの活躍について

山田裕二_グランプリ優勝時

競輪選手になるためには、日本競輪学校に通う必要があります。

デビュー前には、その学校の同期と争い・実力を高めあうのが基本です。

しかし、デビュー後に戦うのは同期ではなく「競輪のプロ選手」。

中には「競輪界を目指すきっかけとなった憧れのプロ選手」「自分の年齢よりも競技歴が長いベテラン」と戦わなければなりません。

デビュー直後は環境の変化や周りの選手の圧に負け、なかなか成績が振るわないルーキーも数多く存在します。

はたして山田裕二選手のデビュー後は、どのようなものだったのでしょうか・・・

調べてみると、山田裕二選手はデビュー直後は新人リーグに所属していたことがわかりました。

新人リーグとは「同期同士のレースを一定期間続けて、そこでの成績によって級班を格付けされるという制度」のこと。

競輪学校の卒業成績が100人中85位だったことが関係しているようで、卒業直後から先輩といきなり先輩と肩を並べることはなかったようです。

チャレンジリーグでの挑戦も、卒業成績が振るわなかったことから不安視されていたでしょう。

しかし、山田裕二選手は同期同班の仲が良かった選手の後押しも有り、着々と成績を収めていきます。

結果として、競輪学校での成績不振が嘘だったかのように、新人リーグ終わりにはA級1班に格付けされました

当時を振り返って山田裕二選手は「チャレンジリーグで一緒に走ってくれた選手なしに、今の私はいない」と語っています。

「一緒に先輩たちと戦える一流の選手になるんだ」という絆のようなものを感じ取る事ができますね。

山田裕仁の愛称「無冠の帝王」の由来について

山田裕二_無冠の帝王

競輪選手には、成績やプレースタイル・人柄などから、異名が付けられることが多くあります。

山田裕二選手もその1人で、付けられた異名は「無冠の帝王」。

「無冠」という言葉にピンとこない人もいるかも知れません。

その由来はデビュー当時、横綱と呼ばれた吉岡稔真選手(福岡・65期)、神山雄一郎選手(栃木・61期)と並ぶほどの逸材と言われたのにも関わらず、特別競輪でのタイトルに恵まれなかったことが関係していました。

特別競輪とは、2001年のグレード制採用以前に使われていた競輪用語。

現在でいうところの、G1に該当します。

「無冠の帝王」という響きは一見よく聞こえますが、山田裕二選手本人には皮肉にも取れたのではないでしょうか。

そんな異名が付けられてから数年後の1997年、山田裕二選手は年に1度のKEIRINグランプリに出場し、見事優勝を果たしました。

これをきっかけに異名は「帝王」にかわり、その後は数多くのタイトルを獲得していくことになります。

山田裕仁の師匠について

師弟関係_イラスト

帝王の異名を持つ山田裕二選手の師匠の名は「中嶋直人」。

岐阜県出身の第39期で、山田裕二選手の21年先輩に当たります。

選手時代は、上位層である「S級選手」として活躍。

通算300勝を記録した名将です。

そんな中嶋直人の指導の元、山田裕二選手は経験を積むことになります。

当時を振り返り、山田裕二選手はインタビューでは「やはり強い選手は練習にはキビシかったですね」と語っていました。

S級選手の指導の厳しさは計り知れませんが、その時の経験は、後の山田裕二選手の強さに繋がっていることは間違いないでしょう。

山田裕仁の偉業をご紹介!

山田裕二_偉業

競輪人生で数多くのタイトルを獲得してきた山田裕二選手。

引退した現在でも語り継がれている偉業は多く存在しますが、代表的なものは以下の3つです。

  • 吉岡稔真のS級連勝記録を18で止める
  • ワールドカップで銀メダルを獲得
  • 史上初のKEIRINグランプリ連覇

どれも競輪界を引っ張ってきたことを証明する偉業となっているので、それぞれ詳しくご紹介いたします。

吉岡稔真のS級連勝記録を18でストップさせた!

山田裕二選手と同年代で、ともに一時代を築いたとされている吉岡稔真選手

1994年1月の和歌山記念をきっかけに6場所で完全優勝を果たしており、全てのレースを1着で決めていることから18連勝を記録していました。

ただでさえ猛者が集まるとされているS級レースでの18連勝の凄さは、計り知れません。

そんな吉岡稔真選手の無双状態を止めることになったのが山田裕二選手。

第47回日本選手権競輪(静岡ダービー)初日特選で見事に一着となり、連勝を18でストップさせました。

ライバル同士だった山田裕二選手が連勝を止めたことには、ドラマを感じざるを得ませんね。

ワールドカップで銀メダル獲得!

山田裕二選手は競輪選手としての活動と並行して、自転車競技としても活躍していました。

代表的なのは、2001年にイタリアで開催されたワールドカップ第3戦です。

競輪選手として多忙を極めていた時期の出場であったことから、コンディションの調整など難しいことが推測でされていました。

しかし、そこは流石一流の山田裕二選手。

見事銀メダルを獲得し、ファンを湧かせました。

競輪選手として第一線を走りながら、自転車競技でも世界2位と結果を残したその強さには、当時多くの競輪選手が憧れたのではないでしょうか。

史上初のKEIRINグランプリ連覇!

競輪界で最も大きいタイトルは、年末に開催される年に1度のKEIRINグランプリです。

山田裕二選手は、このKEIRINグランプリで史上初の連覇を果たしています。

年に1度のレースともなれば、その緊張感は他のレースとは比べ物にならないことが容易に想像できるでしょう。

競輪の長い歴史の中で、山田裕二選手以外に連覇を成し遂げた選手は未だ存在しません。

このことから、当時の山田裕二選手の勝負強さは凄まじいものだったと、推測できます。

今後、山田裕二選手に並ぶKEIRINグランプリ連覇を果たす選手は現れるのか。

期待しましょう。

山田裕仁の引退理由は納得いく練習ができなくなったこと

山田裕二_引退

スポーツ選手には引退がつきものです。

では、競輪界を引っ張ってきた山田裕二選手はどのような理由で引退してのでしょうか・・・

調べてみると、スター選手ならではの葛藤や苦悩が見えてきました。

山田裕二選手の同年代に神山雄一郎(栃木69期)選手や吉岡稔真(福岡65期・引退)選手などスター選手が乱立。

そんな時代の先頭を走るために、山田裕二選手は少しでも練習量を多くしようと意識していました。

とはいえ、当時は練習量の多さにはメディアには一切公言せず、ストイックに競技に取り組んでいたようです。

当時を振り返り、山田裕二選手は以下のように語っています。

練習量が多いことを自慢するなんて……素質がない、他の選手たちより多く練習しなきゃ勝てないことを認めているだけ。素質に恵まれた選手はたいした練習をしなくても勝てるだろうから、練習量を自慢するのは恥ずかしいことだと考えていた

自分に厳しく有り続けたからこそ、激動の時代を渡ってこれたのでしょう。

そんな山田裕二選手が引退した大きな理由は「納得の行く練習ができなくなった」から。

坐骨神経痛が発症し、おしりから下肢にかけて痛みやしびれが続く状態が続いたようです。

脚が命の競輪選手にとっては致命的な症状。

誰よりもストイックに練習に向き合っていた山田裕二選手だからこそ、引退は苦渋の決断だったのではないでしょうか。

それでも、山田裕二選手は引退時に「やり尽くしたし、燃え尽きた」と発言しており、悔いのない選手生活であったことが伺えます。

山田裕仁は現在馬主に!

山田裕二_馬主

現役引退後、山田裕二選手は競輪評論家として活動していますが、馬主として活動もされています。

馬主を始めた経緯は「世間から競輪選手という職業を認めてもらいたい」から。

山田選手が活躍していた時代は競輪のイメージとしてギャンブル色がまだまだ濃い現実が有りました。

プライベートでも偏見など風当たりが強く、胸を張って「私競輪選手です」と言える職業ではなかったそうです。

このような経験から、引退した現在でも同業界で働くことにより業界全体を発展・イメージ払拭を図っているのでしょう。

ちなみに、山田裕二選手が馬主として所有する主な馬は以下のとおりです。

馬名 性齢 賞金
マリンフェスタ 牝20 7,570万円
イーグルカザン 牝15 7,499万円
オフクヒメ 牝10 7,180万円
ケイリンボス 牝12 4,797万円
キンセイポラリス 牝17 4,605万円
マリンゴールド 牝22 1,600万円
リッシュレーヴ 牝13 1,514万円
ケイリンチャンプ 牝13 1,187万円
サンデーヒーロー 牝3 1,074万円

2023年5月現在、現役で活躍している馬は「サンデーヒーロー」のみとなっています。

過去には、数々の強い馬を排出しており、中には賞金1000万超えの馬も。

山田裕二選手が競輪出身ということもあり、馬名にも「ケイリン」が含まれている馬が何頭かいました。

サンデーヒーローは今後、現役時代の山田裕二選手のように多くのタイトルを獲得していくのでしょうか。

山田裕仁の娘はSKE48のチームE「山田澪花」

山田裕二_娘

競輪界のトップを走り続けていた山田裕二選手。

スポーツマンとして優秀なDNAを受け継いだ子供はいるのでしょうか。

調べてみると、意外な職業に就く子供がいましたのでご紹介します。

それは山田裕二選手の娘に当たる「山田澪花」さんです。

彼女は、国民的アイドルSKE48の元メンバー。

キャッチフレーズは「いつも天真爛漫な笑顔! ビッグスマイルがチャームポイント」で、「れいかつん」「れいちぇる」の相性で親しまれてきました。

競輪界と芸能界と世界は全く異なるトップ同士が家族というのは、なんとも不思議で驚きです。

2022年10月、山田裕二選手はツイッターにて山田澪花さんの結婚を報告しています。

娘の成長と新しい門出を祝うお父さんとしての一面は新鮮ですし、娘さんとの仲睦まじい関係性はとても微笑ましいですね。

山田裕仁のまとめ

今回は、山田裕二選手について紹介しました!

まとめると以下の通りです。

  • デビュー直後は「無冠の帝王」と称されていた
  • 史上初KEIRINグランプリを連覇
  • 師匠はS級選手の「中嶋直人」
  • 納得行く練習ができなくなり引退を決意
  • 現在は馬主の顔も持つ
  • 娘の「山田澪花」さんはSKE48の元メンバー

現役時代、輝かしい成績を収めてきた山田裕二選手は今もなお、その強さが語り継がれているレジェンド選手となっています。

彼の練習に対する姿勢やストイックさは、現役選手に多大なる刺激を与えていることは確実でしょう。

現在は競輪評論家として活動しており、多方面から競輪業界を支えています。

山田裕二選手の活動には、これからも目が離せません。

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